カラダで覚えるコト。
高校時代もそうだったかも知れませんが、この年齢になってくるとノルマややりたい事を全てこなすためにスケジューリングが大事になってきます。そして、大抵の場合そんなことをする時間すらもそうこうしているうちになくなり、結局は何かやりたい事を削らなければならなくなるのです。
そうなる前に、やはり空き時間を順次使っていかなければなりません。何が言いたいかというとこの日記も友人の付き添いでバスに乗って車学に着いたは良いが自分の授業があと1時間ほどない、その暇を使って書いている、ということです。
今日もまた前置きが長くなってしまいましたが、それもそのはず、これを書く直前まで今日は「空いた時間の有効活用。」というタイトルにしようと思っていたからです。
確かこの(今日の)タイトルを決めたのは1限だった気がします。というか1限です。「コンピュータへの招待」という講義を取っていて、その時の説明に「パソコンは体で覚えろ」と言われていたのでそこから取ってみました。どうでしょう、ちょっと漢字からカタカナに差し替えただけでこんなにもヒワイに聞こえる日本語の不思議。
実際、「体で覚えろ」なんて色んな場面でよく言われることで、それこそ最近などこの自動車学校で耳にしたばかりです。
しかし私にはどうもその感覚が分からんのです。いや、簡単な例を挙げてしまえば自転車だってそうなワケです。誰もペダルをどう漕ごうなんて考えて運転しないですよ。
ですけどね、こういうのっていわゆる「子供の慣れ」で、小さい頃にやればやるほど身に付くものだと思うのです。どうなんでしょう、やりもしない奴に言えたことじゃないのは百も承知ですが、小学生の親が子供に何やかやと習い事をさせようとするだけの理由はあるんじゃないですか?
つまり、今から新しく何かを始めたところで然るべき限界は来るのであって、かの有名なバンテリンさんの「出来る、出来ないじゃない、やるか、やらないかだ」というお言葉は、欺瞞までじゃないにしても、心に名言と留めておくべきものにしても、やはり少し綺麗事染みたところもあるんじゃと、そう思うワケです。
だから、私はパソコンを感覚ではやっていないと思います。私は、パソコンを合理的で理論的なツールだと思っています。パソコンは人のために作られたものです。人が疲れる作業をより簡単にするために作られたものです。ならば、少なくとも今のGUIであれば、自分がこれをしたいならこう、と思った操作は正解であるべきで、例えばファイルをゴミ箱にドラッグ&ドロップして消えなければそれはおかしいのです。
随分と自分本位な考え方かも知れません。理論的に操作をすることは決して体で覚えることではないです。ですが、同じことはもう他のことでは通用しません。例えば車なら、目の前に子供が飛び出てきたら止まろうと思うよりも前にまずクラッチとブレーキに足がいかなければならない。そういうのが、いわゆる体で覚えた結果得られたものなのだろうと思います。
今からその感覚を身に付けること。それは容易なことではないでしょう。少なからず覚えようという気がなければ上達はしないと思います。矛盾してますね、体で覚えたいのに頭で覚えようとするなんて。私みたいな考え方するから運動神経もないのかも知れません。ほらね、また考えるって言葉使った。
写真は蜂さんです。私もこの蜂さんみたいに、この大空に翼を広げ飛んで行ければなぁと思う、今日この頃です。