最近、とある教育関連の番組を見ていた時に感じたことです。
今でこそあまりなくなりましたが、私が中高に在学していた頃は頻繁に「ゆとり」だの「脱ゆとり」だのと叫ばれていました。
それまでの詰め込み教育や学生の社会性の無さが登校拒否やいじめ、落ちこぼれなどの問題に繋がっているとして我が国では2000年代から「ゆとり」ある教育を積極的に導入してきました。
しかしゆとり教育導入後の国際的にみた日本の学力低下は悲惨で、これらの施策は大失敗に終わり、始まってわずか9年という短い月日を経て、ゆとり教育は終焉を迎えることとなりました。
ゆとり教育の何が問題だったのでしょうか。
世間で言われているように、授業内容、授業数が減ったことによる学力低下というのは確かにありますし、深刻な問題であるとも思います。真偽の程は分かりませんが先日インターネットで調べものをしていたところ、九九の暗記を選択制にしている学校も一時はあったようです。
しかし私としては、本質的な問題点は学習内容にはないのではないかと思っているのです。
実際、小学校で九九を覚えませんでしたと言われたら、それは流石に大げさな例えでこれはこれで今後の生活に差し障りがあるでしょう。ですが、例えば高校で習う微積分など社会に出て一体誰が使うというのでしょうか。
個人的には、「将来的に役に立たない知識は覚える必要はない」という意見自体には賛成です。政府や教育庁もそのような考えを以って少なからずこのような施策導入に踏み切ったはずです。
そしてゆとり教育導入後、大きな変化がもう一つありました。
それが、基礎科目の授業数削減に代わる「総合的な学習の時間」です。
横断的・総合的な学習や探究的な学習を通して,自ら課題を見付け,自ら学び,自ら考え,主体的に判断し,よりよく問題を解決する資質や能力を育成するとともに,学び方やものの考え方を身に付け,問題の解決や探究活動に主体的,創造的,協同的に取り組む態度を育て,自己の生き方を考えることができるようにする。
以上に掲げられているように、「総合的な学習の時間」では自ら見つけた課題に対し自ら考え主体的に判断しよりよい問題解決の能力を身に付けることが一つの狙いとされています。
創造性や発想力など、いわゆる「生きる力」を育成することが趣旨であったこの授業ですが実際的な内容については指導要領などに細かい規定はなかったらしく、他の学校を卒業した人にそこでの総合の内容を訊ねても返ってくる答えはまちまちだったような気がします。
私はこの「総合的な学習の時間」について具体的な学習内容が決められていなかったことがゆとり教育の一つの問題点であったのではないかと感じています。
他の学校がどうであったかは、詳しくは知る由はありません。
しかし私の通ってきた学校では、学級活動の延長線上であったり「お楽しみ会」などということをやっていたりまた時によっては席替えだけでそのまま1コマ潰れる時間もあったりするなど少なくとも発想力を豊かにする授業というのは行われてきませんでした。
それに輪をかけて5科目の授業も(Quality, Quantityの両面で)減ったわけですから、結局想像力を養うこともそれらの土台となるはずの基礎知識を定着させることも出来なかったということです。
つまり、日本の教育システムの問題点は「詰め込むか詰め込まないか」にあるのではなく、その詰め込む(あるいは詰め込まない)やり方にあると思うのです。
「詰め込まない」なりにやり方を変えていければゆとり教育はより良い結果が得られたはずでしょうし、逆を言ってしまえばこれから従来の「詰め込む」やり方に戻したとしてもそれまでのような学力成果が得られるかどうかは分からないですし、むしろ引き続き発想力を養うことのできない内容が続くのであれば習ったことも全ては「基礎止まり」ということになってしまいかねません。
私立の小中学校などではいま、この国の教育システムのこのような点を問題視し、積極的に「有用な」課外活動を取り入れるなど生徒の創造性、発想力を高めるための取り組みを行っているそうです。
公立学校でも今後そう言った活動を導入し、基礎学力を得る時間を維持しつつも子どもたちの「なぜ? なに?」という無垢な探究心を無碍にしてしまわないような教育現場作りが求められることでしょう。