最近、人文系のとある教授から聞いた話になります。

私(管理人のことですが)は高校に入ってからは、あまり国語が得意ではありませんでした。嫌いじゃないんですけど、現文でも古漢でも、何というかこう、何を書いても答えに辿り着けなさそうな、そんな感じがするので。実際定期テストでも模試でもあまり良い成績を取ったことがなかったのです。

ですが受験は受験。センターは無論のこと二次試験でも現文が課される志望学部でしたから、何とかその、名状しがたい不安感を極力消せるように努力しました。

特に二次の記述は学校でやった対策でも自宅で取り組んでいた赤本でも、「この要素があれば○点」という解答基準に厳密に合わせて、システマティックな採点を心掛けていましたし、間違えた所はどうしてその要素が抜き出せなかったのか、他に言い換えている部分がなかったか、そこまで探し出すようにもしていました。

それって普通じゃないですか?

高校の国語の先生だって、そうやって採点してるんじゃないですか?

ですけどね、大学の教授に言わせれば、それは馬鹿馬鹿しいのだそうです。

もちろん模範解答みたいな解答が悪いのじゃない。でも、それだけが答えだなんて、そんなバカげたことはない。

どうして大学入試などというものが存在しているか。

当然ながらそれは、より優秀な人材を選び出すためです。これは就活でも同じことです。求められる技能が違っているだけで。

でも、模範解答を書ける人がその大学の求める優秀な人材なんですか?

答えはノー。

世の中には千差万別、十人十色の考え、価値観、モノの捉え方が存在しています。「人と違うからこれはバツだ」なんていうのはおかしいです。そう思う方が狂っているのです。些細なことでも意見が食い違うのが人間であり、自分と同じ考え方をする者に肩入れしたくなるのが人間であるのです。

ですから、多くの採点者、私の大学の教授たちは、あらかじめ用意された模範解答だけで採点しないそうです。

だからと言って書けば何でも良いというわけではありませんが、「手元の解答とは全然違うけど、こういう考え方をするのは面白い」解答を読んでいる教授にそう思わせるものの多くは、正解として扱うことも多いようなんです。

ですから、赤本に載っている答えと自分の書いた文章が大きく食い違っていることがあったとしても、あまり思い悩まないで下さい。

もちろん模範解答を読んでその答えに近づけるようになるのも、とても良いことだとは思うんですが、それはそうだからと、自分の書いたことは考えとして筋違いであるからと、そんなつまらない理由であなたの素晴らしい考えを無碍にしないで下さい。

世界は美しくなんかない。そしてそれ故に、美しい。

キノの旅

人は裏切りの世界で生きています。決して全てを分かり合えるわけではない。しかし、分かり合えないことがあるからこそ、醜いものが生まれ、美しさの概念を知るのです。